Back 目次 Next

 1話 − 質問禁止事項 −


 家庭教師の話が母親の口から出たその三日後、碧は本当に結城家に来ることになった。
 両者の間でいろいろと調整しつつ予定が組まれて、けっきょく月・水・金曜日の夕食後。7時半から9時半までの2時間だけ勉強を見てもらうということで話が決まったのだ。そして今日がその第一日目。
 碧に見られても恥ずかしくないように、気合を入れて部屋の掃除も隅々までしっかりやったし、いつもよりもほんの少しだけオシャレな家着を選んでしまった自分がちょっと可笑しい。
 でもこうしてゆっくり碧に会うのなんていうのはもう数年ぶりなのだ。子供の頃につくられた温かく優しい『碧おにいちゃん』との思い出に包まれながら、気もそぞろに、わくわくしてしまうのは止められなかった。
 ――ピンポーン。
 約束の時間の5分前。家の呼び鈴が鳴って、私の心臓は一気にヒートアップ。いそいそと迎えに玄関に出ると、扉の向こうでにっこりと笑った碧が立っていた。
「こんばんは。久しぶりだね」
 相変わらずの柔らかな口調が、ゆったりと耳に心地好い。
「……こ、こんばんはっ!!」
 挨拶をしながらも、私は思わず彼に見惚れてしまった。だってやっぱり――碧くんはかっこいいのだ。
 久しぶりに見た、彼の優しそうに笑む端正な顔にはフレームなしの細い眼鏡が良く似合っている。そして無駄な贅肉のない引き締まったその身体は、モデルにだってなれるんじゃないかと思うくらいのスタイルの良さだ。
 そのうえ私が小さいころに遊んでもらった記憶では、碧はとても優しく穏やかな性格で人あたりも良い。目の前に立つ彼の様子を見る限りではそうそう性格が変わったとも思えないし、きっと大学でもモテているのだろうなぁと思った。
 昔から碧は誕生日やバレンタインには女の子からのプレゼントがたんまりと届けられるのだというご近所の噂にも、思い切り頷けてしまって、ちょっぴり悔しかった。
「ん? なんか俺の顔に付いてる?」
 私がじっと見つめているのに気が付いたのか、碧は訝しげに首を傾げてみせる。
「あ……えと、何でもない、です。あの……私の部屋はこっちだよ」
 思わず見惚れてしまったことを慌ててごまかしながら、私は碧を階段の方へと促した。
 二階に上がった廊下の右側にある茶色の扉が私の部屋だ。小さいころ遊んでもらっていたとはいえ、彼が私の部屋に入るのは初めてだ。だから場所を示すように私が先頭に立って階段をのぼった。
「碧くんいらっしゃい。無理言ってゴメンナサイねえ。しばらく、桜のことよろしくお願いするわね」
 とんとんと軽やかに階段をのぼる碧の背に、そんな母の明るい声が聞こえていた。


「――で、チビ桜はどこの高校を受けるんだ?」
 フローリングの床に敷いてあるラグマットに足を伸ばして座り、碧はくつろぐように伸びをしながらそう訊いてくる。唐突なその言葉に、彼が脱いだコートを預かってハンガーに掛けていた私は、思わずぽかんと口を開いて振り返った。
「ちっ、チビ桜!?」
 碧のその口調はとても柔らかなものだったから一瞬聞き流すところだったけど、『チビ』はあんまりじゃなかろうか。
 確かに私は150cmに満たないくらい背は低いけど……今まで誰かにそんなふうに呼ばれたことなんか一度もない。もちろん子供の頃から考えてみたってそんな記憶はなかったし、碧だって昔は『さくら』とか『さくらちゃん』と呼んでくれていたのに。
「答えたくない? そんなんじゃあ傾向と対策も教えようがないだろう。あと一ヶ月しかないんだし、チビ桜の志望校に合わせた指導してやろうと思ったのに」
 無言で口をパクパクしている私に、碧は志望校を教えたくないと理解したのか呆れたように息をつく。私に合った勉強を教えてくれようというその気持ちは嬉しかったけど……また、チビ桜って言った!
「あ……碧くん。あのね、そのチビ桜って、やめてほしいんですけど……」
 ようやくのことで私がそう言うと、碧はきょとんとこちらを見やり、そうしてすぐにニヤリと口端を吊り上げるように笑った。
「チビはチビだろ。俺はおまえがこんなチビの時から知ってるわけだしな。ほら、余計なこと言わずにさっさと俺が訊いたことにだけ答えなさい」
 赤ちゃんくらいの大きさを手で示しながらそう言うと、碧はもう一度にやりと笑う。どうやら『チビ』というのは私の身長のことではないらしい。ただ……動物の赤ちゃんとかに『チビおいで』などと呼ぶような感覚なのだと思うと、なおさら悪い気がしてもっと落ち込んでしまった。
「でも、チビはやだもん……」
 上目遣いに私がそう言うと、碧はちらりと視線をこちらに向けながら無造作に眼鏡を外した。それをいくつかボタンの開いたYシャツの襟合わせにひょいっと引っ掛けると、あらわになった形のよい切れ長の黒瞳は、強い眼光を宿して私を見据えるように細められていた。
「最初に言っておこうかな。おまえが俺に何かを訊いたり要望しても良いのは、勉強に対する質問・疑問だけだよ。それ以外は、すべて却下。おれのやり方に対する不平不満も受け付けないよ」
「――ええっ!?」
 思わぬ碧の言葉に、私は素っ頓狂な叫びを上げてしまった。当然の反応だよね、これは。だってそれって、私の意思はまるっきり無視ってことでしょう? 私はただ能力をプログラミングされていくだけのロボットじゃないってば。
 それに――昔のように他愛もない話をしながら楽しく勉強できると思っていたのに、そう言われてショックを受けるなというほうが無理な話だ。
「なーに不満そうな声を出してるのかな、チビ桜は? この俺が勉強を見てあげようって言ってるんだから、それぐらいの覚悟はしてもらわないとね。俺が見てやったのに志望校に落ちたなんて言われるのは御免だからさ」
 にっこりと、昔と同じ天使のような優しい笑顔で碧は言った。
「…………」
 ああもう。なんでそういう台詞を柔らかな口調で言えるのだ、この人は! なんかこう……自分の中で出来上がっていた『優しい碧おにいちゃん像』がいっきに崩れるような気がして、思わず私はガックリと肩を落としてしまう。
 もともとこういう性格だったのを私が気付いていなかっただけなのか。それとも、大人になって変わったのか。どちらにしても、一見すると優しそうなこの隣家の青年が一筋縄ではいかない性格をしているだろうことが分かって、この先の受験勉強が一気に不安になってしまった。
「……碧くん、なんで私の家庭教師なんて引き受けてくれたの?」
 嫌なら引き受けなければ良かったのに。そう思って訊いてみる。勉強のこと以外で質問をするなと言われたばかりだったけど、それとこれは話が別だ。このままでは、素直に勉強なんか見てもらう気にもなれない。
 私がじっと見つめると、碧はほんのちょっぴり睨むように目を細めたが、特に文句は言わずに軽く微笑んでくれた。
「そんな質問は却下だ……と言いたいとこだけどまあ最初だから特別に答えてもいいか。とりあえず、提示されたバイト代が他の所よりも割が良かった事がまずひとつ」
 顔の前で綺麗な長いひとさし指を一本立ててみせて、碧はそう言う。家庭教師というからにはもちろん礼金は払う約束なのだ。でも……そうか。お金の問題だったのか。そう思うとちょっぴり寂しい気もして、思わず私は頬を膨らませた。
「それと――チビ桜に付きあってやるのもたまには良いかって思ったからな」
 2本目の指を立てて、碧はくすりと笑う。
「――!?」
 そう言った碧の表情は楽しそうで――でも何かを企んでいるような表情でもあって。天使のような笑顔の裏側に、ちょいちょいと黒い悪魔の尻尾が見え隠れしているようにも見えた。
 それでも。引き受けてくれた理由のひとつが『わたし』にもあるのだと言ってくれた事で、私はおおいに気を良くしてしまい、そんな悪魔の尻尾を見ない振りをすることにしてしまったのだった。


 Back  Top Next −


 Copyright © 琥珀の月. All rights reserved.