「ごめん、さーちゃん。こんなに遅くなっちゃって」 私の隣を走りながら、 「もし間に合わなかったら僕も一緒に謝るからさ……」 「大丈夫だよ、ひーちゃん。まだ7時30分までは10分くらいあるもの。間に合うよ」 どこか気弱そうな目を情けないほどに恐縮させている幼馴染みの少年に、私はにっこり笑顔で言う。 今日は金曜日。家庭教師として碧が家に来る日だ。それなのに、まだ私は帰宅していない。生まれた時からの付き合いがあるこの幼馴染みに、母親の誕生日プレゼントを一緒に買いに行って欲しいと頼まれたからだ。 こんなに遅くなるつもりではなかったのだけど、聖のお母さんは私にとっても大好きなおばさんで。つい、選んでいるうちに時間が経つのを忘れてしまったのだ。 「あと、少し……っとと!?」 あの角を右に曲がれば、すぐに家が見えてくる。そう思ってラストスパートのダッシュをしかけたその刹那、私は思わず足を止めて、隠れるように塀の陰に身を寄せた。 曲がり角の向こうに止まっていた赤い車の中から、長身のシルエットがゆらりと出て来るのが見えたからだ。すぐにそれが碧だと分かった。遠目だけれど、外灯に照らされた碧の端正な姿を見間違えるはずもない。 「どうしたの、さーちゃん?」 急に立ち止まった私に、聖は不思議そうに訊いてくる。 「しーっ。そこに碧くんが居るの。時間まではあと10分くらいあるし、たぶんうちに来る前に自宅に帰るはずだと思うから、それまでやり過ごそうかなって……」 聖にも隠れるように手で示しながら、私は小声でそう答えた。 碧とここで鉢合わせするのは避けたい。勉強時間ぎりぎりまで私が帰宅していなかったことを知ったら、きっと碧は不機嫌になるに違いないのだから。何せ、いつも自分が来る前にはちゃんと予習をしておけってうるさいのだ、碧は。 それに――私が勉強の日に不真面目に遊び歩いてるだなんて思われるのはやっぱり嫌だった。 「あれ、碧にーちゃんの車じゃないよね。すげーかっこいいっ! あの跳ね馬のエンブレムっ、フェラーリだよ、さーちゃん」 車好きの聖は嬉しそうに真っ赤な車体を見やってそう呟く。確かに、あれは碧の車ではないはずだ。あんなに派手で高級そうな外車をこの近所で乗っている人は見たことがない。おそらく誰かと一緒に出掛けていて、送ってもらったのだろう。 そう思って、私はもう一度塀の影から碧と車を見やる。早く家の中に入ってくれないかな……と願いながら。 その時ちょうど左のドアが開いて、もう一人誰かが車から下りたのが見えた。外灯の淡い灯りに照らされたその人は――とても綺麗な女の人で。どくん……と私の心臓がひとつ大きく鳴った。 車から下りた女性はさらさらロングのストレートヘアを風になびかせるように、ふわりと碧の首に絡み付くように腕を伸ばす。そんな彼女に碧は軽く腰をかがめて、ゆっくりと顔を近づけていくのが見えた。 「……き、き、ききき、キスしたっ!? さ、さーちゃん、見たか? 碧にぃ……キ……キスしてたぞっ!?」 聖が真っ赤な顔をしてこちらを振り向きながら、声にならない声で叫ぶ。私は腰が抜けたように、思わずぺたりと地面に座りこんでしまっていた。 「…………」 あの人――碧くんの恋人なんだろうか? そう考えただけで、胸の奥から苦いものが込み上げてくる。外灯の下で重なったシルエットから目をそむけるように、私は慌てて横を向いた。 そりゃあ碧はもういい大人なのだし、キスくらいしていたっておかしくない。あの年齢なのだからむしろそれ以上のことだってしているのが普通だろうとも思う。恋人同士の男女が何をするかくらい、私だってテレビや雑誌で見て知ってるのだ。 でも――考えたくない。 「さーちゃん、だいじょぶ? 顔色、悪いけど……」 自分が今にも泣きそうな顔をしているだろうことは自覚していた。幼馴染みの聖がそれに気付かないわけもない。"近所のお兄さん"のキスシーンを目撃した衝撃も吹き飛んだように、聖はいかにも心配そうに私に向かって手を差し伸べていた。 「……ふぇ……ん。大丈夫じゃ……ないよぉ」 私が座りこんだままで応えると、聖は驚いたように目を見張った。 「ええっ? そんなに具合悪いのっ? 全速で走ったから、貧血でも起こしたのかなぁ」 聖はひとり勘違いしたように呟くと、おろおろとしながらも私の前に背を向けてしゃがみこむ。それはまるで、おぶされと言っているような姿勢だ。 「さーちゃん家まで連れてってあげるから、乗って良いよ。もう目の前だし、僕でも背負っていけると思うぞ」 案の定、聖はそう言ってきた。 この年代の男の子にしては小柄な聖だけれども、147cmしかない私よりはもちろん大きい。だからといって、本当に体調が悪いわけでもないのに「はいそうですか」なんて背中に乗る気にはなれなかった。 「……ありがと。でもだいじょぶだよ、ひーちゃん。もう良くなったから」 慌てて私はそう言うと、ゆっくりと立ち上がる。おそるおそる前方の外灯下をちらりと見やると、すでにそこに碧の姿はなく、女性の方も車に乗り込んでいるところだった。 思わずほっと肩の力を抜きながら、私は深く長い吐息をもらす。先ほど見た光景がなかったことになるわけではないけれど、目の前にあの二人が揃っていないということで、少し気持ちが落ち着いた。 「そう? 良かった。でもやっぱりさーちゃんまだ顔色悪いよ。今日はゴメンな、つきあわせちゃってさ」 心底から申し訳なさそうに聖が言うので、私はちょっと可笑しくなって、くすりと笑った。本当に、この幼馴染みは人が良いと言うか気弱と言うか……。 「ううん。ひーちゃんのおばさんは私も大好きだもん。ちゃんとお祝いしてあげてね」 「うん、ありがとさーちゃん。助かったよ」 私が笑ったのでほっとしたのか、聖にも笑顔が戻る。 そうして時計を見やり、もうすぐ針が7時30分を指そうとしていることに気が付いて、私たちは急いで自宅へと走って行った。 「こら、チビ桜、何ぼうっとしてるんだよ。もう出来たのか?」 碧はぺしりと私の頭を軽く参考書で叩きながら、ちろりと睨むようにそう言った。優しく聞こえる碧の穏やかな声音は、けれども確実に針を含んでいる。 「……まだ、です」 今日は私の志望校の入試問題の傾向に沿った練習問題をいくつか碧が作って来てくれており、それをやった結果で私の弱点を見つけて改善していこうと、碧はさっきそう言っていた。 丁寧に作られたその問題用紙を前に、しかし私は何も答えを書いていなかった。 分からないとか、そういうわけじゃないけれど。どうしても碧の顔を見るとさっきのキスシーンを思い出してしまうのだ。しかも、いつもはしない仄かな甘い香りが碧から漂うように薫っていて、更に集中力がなくなってしまう。 そんな自分の動揺を必死に悟られないようにするだけで精一杯だったのだ。 「まさか、その問題が全部分からないというわけではないよな? もしそうなら、俺はそんな馬鹿生徒を教えるのは御免だし、このバイトは降りるよ?」 そんな台詞をやんわりと微笑みながら言うから 私はここ何回かの授業で、碧の性格が昔から変わってはいないのだろうと悟り初めていた。きっと幼かった頃の私には、碧のこの優しげな口調と顔だけがすべてで、その裏にある棘に気付いていなかっただけに違いない。 もちろん遊んでもらっていたのは本当だし、意地悪されたことなどはないけれど――。 「そ、そんなに馬鹿じゃないもん。わかるもん!」 家庭教師を辞められてしまうのが嫌で、思わず私は急いで反論。 いままでなかなか会えなかった憧れのお兄ちゃんだ。"優しい"というイメージはがたがたと崩れてはいたけれど、子供の頃から密かに想って来た気持ちがそんなことで簡単に消えたりはしない。 だからせっかく一緒に過ごせるこの機会を失くしてしまうのはいやだったし、やっぱり碧に教えてもらいたかった。 「ふうん? それならなんで20分間たっても白紙のままなのかな? できるなら、さっさとやりなさい。分からないなら質問する。そのままじゃ時間が過ぎるだけでもったいないだろう」 小言をいうようにふうっと息を吐くと、碧はちょいっと私のおでこを軽く小突く。その拍子に、ふわりと甘い香りが再び私の鼻孔に付いてきて、思わず腹が立った。 普段の碧からはこんな香りはしていなかった。それならば……さっきの女性の残り香に違いないのだ。 「だっ……だって! 碧くん香水の匂いがぷんぷんするんだもん。私の授業の日には……そういうのはやめて欲しいの。その香りのせいで集中できないんだもの」 赤い車から降りてきた綺麗な女の人。近付いた二人の影。一気にその光景が脳裏に浮かんできて、私は思わずそう言ってしまっていた。キスしていたのを見たとはさすがに言えなかったけれど――。 「匂い?」 不思議そうに呟くと、碧は自分の服に軽く顔を近づける。自分でもその残り香がわかったのか、彼は僅かに眉をしかめるように小さな舌打ちをした。 「ったく、都のやつ……」 どこか不愉快そうに、碧は少し長めの前髪をかきあげるように天井を仰ぐ。 ――ミヤコ。それがさっきの彼女の名前なのだ。小さく呼ばれたその名前を耳聡く聞き取って、一瞬苦い思いが浮かぶ。けれどもそれを気取られないように、私はじっと碧の顔を見上げた。 「甘い匂い、するでしょう?」 「ああ。ごめんな。おまえがそんなに匂いに敏感だとは思わなかったよ。次からチビ桜の家庭教師のバイトの日は、香水とか何もつけてこないように気をつける」 ぽんぽんと私の頭を軽く叩いて、碧は苦笑を浮かべた。 まるで今の香りは自分がつけている香水だというような口ぶりだったけれど、それが嘘なことは知っている。でも敢えて言及はしなかった。そんなことよりも、碧の他の言葉に私は驚いていたのだ。 だって。まさか彼が謝るなんて思いもしなかったから。 「……びっくり。碧くんにそんな要求は却下だって、怒られるかと思ってた」 正直に私がそう言うと、碧は可笑しそうに頬を緩め、形のよい唇に柔らかな微笑みを浮かべた。 こういう表情だけを見れば、本当に優しそうで素敵な青年なのだ。思わず見惚れてしまうほどに。 「ふふん。よく分かってるじゃないか。でも……勉強する環境を整えるのは教師の仕事のひとつでもあるからね。チビ桜の集中を欠くような"モノ"を持ち込んだのは俺のミスとも言える。俺の授業のやり方に対する不平不満は受け付けないが、そういう要望はきちんと聞いて上げるよ? まあ――」 言いながら、碧は柔らかだった微笑みをにやりと意地悪に吊り上げる。 「こんな香りぐらいで集中力を欠ようなく生徒は、困りものだけどな」 「集中出来なかったのは香りのせいだけじゃないもん。碧くんさっき外でキスしっ……あっ!」 困り者だという言葉に反論しようとつい口が滑って……私は慌てて言葉を止めた。けれども、碧にはしっかりと聞こえてしまったらしい。 「……チビ桜。ここから覗き見してたな?」 碧はすっと眼鏡を外して、じいっと見据えるように切れ長の目を細めて見やる。隔てる硝子のないその強い眼差しから逃れるように、私は必死で知らん顔をするように顔を背けた。 「まったく……」 「の、覗いていたわけじゃないもん。偶然見えたんだもん……」 それでも突き刺さってくる碧の強い視線に抗しきれず、私はあっさりと見た事を告白。もちろん、自分が外にいたことは言わなかったけれど。 「ははあ。おまえの視線が今日はやけにおれの口許に来るなあと思っていたんだけど、そういうことだったのか」 「ううっ……」 恥ずかしさのあまり、私はぐったりと肩を落とすように俯いた。きっと、いま私の顔は熟れたトマトのように赤面しているはずだ。 「まあ、それなら集中を欠いても仕方ないか。確かにチビ桜には刺激が強いだろうし、子供の教育上にはよくないもんな」 あんな往来で彼女にキスをしていたことを反省したのか、碧は深い溜息を吐くように言葉を紡ぐ。 でも――今の言葉って、私は"お子様"だと馬鹿にされたんじゃないだろうか!? 「べ、別にキスくらい中学生だって普通にしてるもんっ! それくらいで教育上がどうとかって、意外と碧くんは考えが古いんだね」 同級生の中にはキスくらいは経験済みという友だちも結構いるのだ。私はしたことなんかなかったけれど……子供だといわれたのが悔しくて、思わず拳を突き上げるようにそう言っていた。 「へええ? じゃあ、チビ桜もキスしたことあるんだ?」 なんだろう。碧の声が一段低くなったような気がする。不思議に思ってちょっとだけ表情を盗み見ると、何故だか碧は少し不機嫌そうに見えた。 それでももう後には退けなくて、私は更に強気に出る。 「ふ、ふんだ。でも、私は碧くんみたいに人前でなんかしないもん」 「……ああ、そう。俺は往来だろうが何処だろうが、したい時にするんでね。……まあ、まさか隠れて覗いてるおチビさんがいるなんて思わなかったけど」 ぴんっと私のおでこを人差し指で弾いてから、碧は苦笑するように唇の片端を吊り上げる。 「とりあえず、今日は桜の集中力は皆無のようだし、勉強はやめ。俺は帰るよ。……今日の分のバイト代は要らないって、おばさんには言っとくから。じゃあ、また月曜な」 そう言い捨てると、碧はすっと立ち上がり、躊躇うこともなくそのまま私の部屋からさっさと出て行ってしまう。 私はあまりの急な展開についていけず、ただ茫然と、そんな碧のうしろ姿を見送ることしか出来なかった。 |