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 − プロローグ −


「ああ、そうそう。あおいくんが、あなたの家庭教師を引き受けてくれたわよ」
 デザートのチーズケーキを器用に切り分けながら、そう言って母はにっこりと笑った。
 その唐突な言葉に、私――結城 桜は、驚きのあまりに思わず持っていたマグカップを投げるようにテーブルに置いて、まじまじと母親を見やってしまった。
「ど、どうして? なんで碧くんがっ!?」
 碧くんというのは、隣の家に住む大学生のお兄さんのことだ。子供の頃はよく遊んでもらったけれど、私が中学校に上がる頃には向こうは既に大学生で、近頃だいぶ疎遠になってしまっていた。今では時々道端で会って挨拶をするくらいなのだ。
 それが、とつぜん家庭教師を引き受けてくれたという母の言葉だ。驚かないわけがない。
「あら。いやなの? ここのところあなた受験勉強に不安を抱いているみたいだったから、お母さん、真美子さんに頼んだのよ。碧くんなら頭も良いし、桜もよく懐いてたから良いかと思って」
 切り分けたチーズケーキをよそった皿を私に手渡しながら、母は軽く首を傾げる。
 確かに、受験の日が近付くにつれて私の不安は大きくなる一方だった。受験まであと1ヶ月くらいしかないけれど、今になって思ってしまうのだ。この勉強方法で良かったのかな。足りないところはないかなって……。
 母がそんな私の不安に気が付いてくれていたのは嬉しかったけれど。
「ううん。いやじゃないよ。ただ……碧くんが引き受けてくれるなんて思わなかったから」
 母と隣家の奥さんである真美子さんはとても仲が良い。家族がみんな会社や学校に出払ったあとなどは、互いの家を行き来してティータイムを楽しんだりしているらしい。おそらくそんな雑談の中で「うちの娘の勉強をお宅のお兄ちゃんに見てもらえないかしら」などと真美子さんに頼んだのだろう。
 けれども。時々道端で会った時でも、どこか忙しそうでほとんど会話もしないで去っていた碧が、受験生の家庭教師なんてする時間があるのだろうか?
「碧くん、卒論も終わって今はけっこう暇なんですって。他のバイトもあるから毎日は無理だけど、週に3回くらいは来てくれるって言ってたわよ。良かったわね」
 にっこりと、母は楽しそうに笑って言った。
「ふ、ふーん。そうなんだあ……週に3回かぁ」
 そういう私の顔も、思わずにやけてしまうのが自分でも分かった。今までほとんど会うことも出来なかった隣家のお兄さんに、そんなに頻繁に会えるのだと思うと嬉しくなってくるのは仕方がない。
 何を隠そう、私の初恋の相手。そして……今も心密かに想っているのが、その隣家のお兄さん。
 私よりも7歳年上の青年。阿部 碧あべ あおいだったのだから――。
 

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