キリンとライオン

 よく晴れた金曜の午後、あたし――斉藤真奈美は学校帰りに一人でぶらっと町外れの動物園にやって来た。
 平日だから人出も少なくゆっくりと動物が見られるから――というわけではない。とにかく気分転換がしたかったのだ。
 今日の最後の授業――数学の時間に、この間やった小テストが返って来たことで、あたしはイライラしていたのだ。
『おまえらは、こんな問題も出来ないのか、情けない奴らだ。この学年は例年より一クラス分多く合格者を出したからな。その分バカが増えたんだ』
 数学の高井は嘲るように怒鳴っていた。そして一番悪かった者の点数を発表し、さんざん嫌味を言った挙句に、
『おまえたちなんか学校ここに来る資格もない。さっさとやめてしまえ』
 そう、嘲笑うように言った教師の姿が思い出され、思わず溜息が出る。
「さいてー……」
 そんなふうに人を傷つける権利が教師にあるのだろうか? いや、教師だけでなく、誰にもそんな権利はないはずだ。
 こんな能力優先のオリの中なんか嫌いだ。居たくない。逃げ出したい――そんな思いがあたしの中に渦巻いていた。
 だから……そんなイライラを可愛い動物たちをみることで和ませたかったのに、ことあるごとに数学の高井を思い出してはイラついて、いっこうに楽しい気分にはならなかった。
「……え? なんだろう?」
 不意に、目の端に何か強く惹かれるものが映ったような気がして、あたしは歩みを止め、その方向へと向きなおる。
 そこに居たのは同じ年くらいの……16・7歳くらいの少年だった。その少年は、柵に寄り掛かるようにしてキリンを眺めていた。
 顔見知りではない。初めて見る少年だ。それなのになぜ彼のことが気にかかったのかは、自分でも分からない。ただ、さらさらと柔らかそうな焦げ茶色の髪が、綺麗だった。
 その少年は視線に気付いたのか、ゆっくりとこちらを振り向いた。不思議そうに首を傾げてあたしを見やり、そうしてふと真顔になる。
「……あんたの目は、動物園オリのなかのライオンと同じだな」
「へっ!?」
 彼の言うことがとっさに理解できず、思わず呆けた返答をしてしまった。
「自由をほしがるオリの中の動物。でも諦めるしかないって思い込んで逃げているだけの……哀れなライオンの目だよ」
 少年はほんの少しだけ、笑った。
「…………」
 見ず知らずの人間に突然そんなことを言われるような覚えはない。それなのに……なぜか怒りは沸いてこなかった。それよりも、自分で気付いていなかった……気付いていたくせに、偽って知らない振りをしていたホントの自分を指摘されて、羞恥の方が強かった。
 だからあたしは一瞬息をのみ、思わず彼から目を逸らしていた。まともに顔を見ることが出来なかったのだ。
「ああ、ごめんね。初対面の人にこんなこと言っちゃって。じゃあ、オレ帰るね」
 そんなあたしの様子を見て、少年はあたしが怒ったのだと勘違いしたようだった。申し訳なさそうにぺこりと頭を下げると、彼はかすかに微笑んでから、ゆっくりと私に背を向けて遠ざかっていく。
「あ……っ」
 とっさに手を伸ばしてはみたものの呼び止める言葉は見つからず、あたしはただ硬直したように、そのまま彼が立ち去るのを見続けることしか出来なかった。


 次の週の金曜日。またあたしは動物園に来ていた。――あの子に、もう一度会いたかったのだ。同じ曜日の同じ時間に来れば、また会えるような気がした。
 その予感は当たり、彼はこの間と同じように柵の前に立ち、ぼんやりとキリンを眺めていた。
「あ、あの……こんにちは」
 今までこれほど緊張したことがないかもしれないというくらいに緊張しながら、あたしは勇気を振り絞って少年に声をかけた。
 少年はふと顔を上げてあたしの顔を見ると、にっこりと笑った。
「あ、確か先週ここで会った……えーっと?」
「斉藤真奈美です。あの、あなたは?」
「オレは大内 柊おおうちしゅうだよ」
 あたしたちは互いに名乗りあってから、どちらからともなく、キリンの前に置かれていたベンチに腰掛けた。
「大内さんは、いつもココに来るんですか?」
「柊でいいって。たいしてあんたと歳は変わらないだろし。――金曜日は部活がないからよく来るよ」
 少年――柊くんは、そう言って笑った。
「あたしは……二度目なんです。しゅ……柊くんに会えるかなと思って」
 自分自身でも驚いてしまうくらいに素直にあたしはそう言っていた。
「オレに? なんで?」
 柊くんはマジマジとあたしを見つめた。そりゃあ、いきなりそんなふうに言われたら驚きもするだろう。そう思いつつ、あたしは次の言葉を口にする。
「こないだの話の続きが、聞きたかったから」
 あんなふうに言われたままでは、落ち着かなかった。弁解もしたかったし、もっと、ちゃんと話を聞きたかったのだ。
「続きなんて、ないよ」
 彼は困ったように肩をすくめてみせたので、あたしはちょっとガッカリした。けれども――
「……たださ、あんたの目がちょっと前までのオレにそっくりだったから、ついあんなコト言っちゃったんだ。ゴメンな」
「え?」
 あたしが聞き返すと、柊くんはふっと笑った。そしてベンチから立ち上がり、キリンの前まで行くと、ゆっくりこちらを振り返る。
「オレさ、キリンを見るの好きなんだ。とくにココの動物園のキリンは、いいな。……ちょっと前までは嫌いだったけどさ」
 少年は柵にもたれて照れくさそうに笑った。
「どうして?」
 不思議に思って訊ねると、柊くんは視線をキリンの方へと移した。
「瞳がさ、自由なんだ。すっごく。……オリの中にいるのにさ」
「瞳が?」
 彼はこくんと頷いた。
「だからムカついてたんだ、昔は。こんな動物園に入れられて窮屈なのに、なんでそんな自由な瞳をしていられんのかって。……ちょうどその頃、オレ、学校に嫌気がさしてたからさ」
 ――自由を奪う学校に。
 ――能力優先で、生徒を傷付けても平然としている教師に……。
「だけど、そんなふうに思うだけで諦めてた。これが今の社会なんだから仕方がないって」
「あたしっ、あたしもそうなのっ!!」
 思わず叫んで、あたしはベンチを蹴るように柊くんの方へと駆け寄った。
「やっぱりな。だから、あのライオンと同じだって言ったんだ。ホラ、だってあのライオン。いつ来たってああやって虚ろに寝そべってるだろ。ときどき近付く者を威嚇するように吼えて……。なんかさ、ああやって現実から逃げてるように見えないか?」
 少年は溜息をつくようにそう言った。
 あたしは寝そべって動こうとしないライオンを見つめた。まるで教室の中に居る自分を見ているようで、みじめな気持ちになる。
「どうして柊くんは、あのライオンのような目をしなくなったの?」
 みじめな自分が腹立たしく、哀しいような気がしてあたしは助けを求めるように訊いた。
「うーん。自分が逃げているだけだって気がついたから、かな。……ここのキリンがね、気付かせてくれたんだ」
「ええっ!? キリンが?」
 あたしは驚いて、思わずキリンと柊くんの顔を見比べてしまう。少年は軽く苦笑した。
「前はコイツを見るのが嫌いだったって言ったろ? だけど――」
 柊くんはためらったようにうつむいたが、ややしてふっきったように顔を上げ、
「オレ、学校に反発して、何もかもがイラついて……教師を殴ったことあるんだ。殴っても気は晴れなかった。それで――何かが違うって。こんなことがしたいんじゃないって思った。それで教室を飛びだして、無我夢中で走った」
 少年はちょっと笑って、高く伸びるキリンの顔を仰いだ。
「気がついたら、ココに居たんだ。無意識に、コイツを見てた。いつもは、のほほんとしたキリンの目が腹立たしく思えてたのに、その日は違った。なんか――感動……っていうのかな。心が震えたんだ。こいつはただ、ボーっとしてるわけじゃなくて、今の自分の境遇をしっかり見つめているんじゃないかって。大草原での自由を奪われても、毅然とそれを受け入れてる。諦めとは違って、穏やかに一生懸命コイツなりに生きているように思えた」
 柊くんはいったん言葉を切ると、あたしの方に視線を向けて笑う。
「キリンの"のほほん"とした瞳が強く見えたよ。その時オレは、初めて自分が逃げているだけで何もしちゃいないことに気がついたんだ。――あのオリの中で諦めながら、ただただ不満だけを抱えているライオンと同じだって。それからかな、ときどき、コイツを見に来るようになったのは。自分も一生懸命に生きようって、そう思えるからな」
 あたしは、その言葉を聞きながらぼんやりとキリンを見上げた。
 のんびりと。けれどもどこか毅然と佇む、すらりとした、その姿を――。
「ねえ、柊くん。ホントに自由な人って、どんな人なんだろうね」
 キリンの姿を見やり、そうしてあたしは柊くんに向き直る。
「そうだなぁ……何だろうなぁ。――自由な人っていうのは、現実から逃げずに、流されずに、屈しない。そんな、強い人間のことだと思う。コイツ……このキリンみたいにさ」
 柊くんはちょっと笑って、再びキリンを眺めるように顔を上げた。
 あたしは……そんな柊くんの瞳も、あのキリンのように強くて……そして自由な瞳だと思った。
「そう言ってもらえると、嬉しい」
 柊くんは照れたように微笑わらった。
「あたしも、頑張らないとなぁ」
 先週初めて彼を見たあのとき……あたしが柊くんに思わず目を奪われたその理由が、今わかったような気がした。あたしがあこがれ、求めていたものを、柊くんが持っていたからだろう。
 自由を得るということは、強い心を持つ。どんなコトも諦めない。どんなコトにも屈しない。強い心で ―― 自分らしく。そういうことなんだよ……ね。
 そんな瞳があふれたら、今のあたしはどう変われるのだろう? きっと、自分がもっと好きになれる。そんな気がした。
「柊くん、来週も動物園ココに来る?」
 あたしが訊くと、柊くんは少し考えて「たぶん来るよ」と答えてくれた。
「あ、あたしも……また来ても良い? 一緒に……キリンを見ても良い?」
 あたしは恥ずかしくて、自分の顔が真っ赤になっていることを感じた。でもしっかりと柊くんの瞳を見つめて言った。
 彼は一瞬びっくりしたように目を見張ったけれど、すぐににっこりと微笑わらって頷いた。
「いーよ」
 その笑顔は春の陽射しのように暖かく、あたしの心に広がった。
「じゃあ、また来週ココで!」
 動物園のゲートの前で、あたしは叫ぶ。
「うん、またなっ!」
 柊くんは、ちょっと笑って手を振った。

 キリンはのんびりとした黒い瞳で、そんな人間たちのささやかな営みを穏やかに静かに眺めていた。いつまでも、変わらずに――。

『キリンとライオン』おわり

Copyright 2006 Yuu Narusawa All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-